対機説法=人を見て法を説くこと
対機説法とは、お釈迦さんの説法の仕方、その特徴を表した言葉です。
例えば、人によって、その能力や素質、或いは環境や思想といった違いがあります。
お釈迦さんは、その人の機(能力や素質など)に応じて、臨機応変に説法の仕方を変えていました。
応病与薬
対機説法の喩えとして、応病与薬(病に応じて薬を与える)という言葉があります。
病、そして、薬と聞くと、まず思い浮かぶのが、お医者さんです。
私達がお医者さんにかかる時、お医者さんはまず第一に、患者さんの症状を聞いたり、身体の様子を調べたりします。
患者さんの状態を診察し、病気を判断し、また健康状態を確認します。
そして次に、病気の症状に応じて、処方する薬を考えます。
例えば、風邪の人には風邪薬、花粉症の人には点鼻薬、インフルエンザの人にはタミフルなど、といった具合にですね。
そして、最終的に、それぞれの患者さんに適った薬をそれぞれ処方します。
それはたとえ同じ症状であった(例、鼻水が出る)としても、患者さんの症状をよく診察して、病気の種類に応じて、その病気を治す薬を処方します。
お釈迦さんの説法も同じこと。
人の素質、能力、立場、思想や問題などは皆それぞれ違いますが、お釈迦さんはその人よく診て、説法という薬の処方の仕方も臨機応変に変えていたというわけです。
お経は対機説法の集まり
お経は元々、お釈迦さんが、いつ、どこで、どのような法を説いていたか、そのエピソードの集まりであるということを、仏教エピソードの附録「お経の成り立ち」にてご紹介しました。
つまり、お経はもともと、お釈迦さんの対機説法集であるということです。
お経を読むと、「あの時には、ああ言っていたのに、別の時には、正反対のことを言っているわ!」ということがあります。
実例を挙げれば、「善き友がいることは修行の半ばではなく、その全てなのですよ」と言っていることもあれば、「犀の角のように、ただ独り歩め」と言っていることもあります。
確かに「独り歩めと言っときながら、一方では仲間は大切にと言っている」と受け取れます。
しかし、これは何もいきあったりばったりで、適当に言っているわけではありません。
それぞれ違う視点から同じことを指しています。これが仏教の興味深いところであり、また難しく感じてしまうところでしょうか。
同じものを指さしているとしても、その人の立ち位置が変われば、指をさす方向は変わるものです。
例えば、東の空に月が昇っているとします。「あの月を見て!」と月を指しました。
あなたが北を向いている場合、指が指し示している方向は右方向です。反対にあなたが南を向いている場合、指が指し示している方向は左方向です。
こんなふうに、たとえ同じものを指さしているとしても、その人の立ち位置が変われば、指をさす方向は変わるものです。
お釈迦さんも怠けている人には「頑張りなさい」といい、頑張りすぎて無理している人には「休みなさい」と言っています。怠けている人に「休みなさい」とは言いませんし、無理している人に「もっと頑張れ」とは言えません。
対機説法、その奥深さ。私にとっては、お経に込められたおもしろさの一つです。
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