坐禅はまるで独楽の様に……

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久しぶりに、独楽こま回しをしました。

小学生の時に随分遊んでいた独楽こま。実はその頃持っていた独楽こま達を見つけたので、久しぶりに回してみました。

ひもをまいて、サッとなげる。あのころと同じように回せてほっとしました。

また、子供ながらに色を塗ったのも、懐かしく思いました。落書きみたいになっていますが……。

見つけた独楽こまの中には、芯(軸)が歪んでいるものもありました。随分長い年月ほっとらかしにしていたものですから仕方ありません。

軸がブレている独楽こまは、回せたとしても、荒れているご様子。随分暴れん坊でした。

一方、芯(軸)のゆがみがない独楽こまは、ピタッっと静かに、とまります。とまるというと語弊がありますが、まるで止まっているかのように、綺麗にその場を動かずに、動いているまわっているのです。

当然、文字通り、止まるストップすると、独楽は倒れてしまいます。

さて、この独楽を観て、坐禅を連想をするのは私だけでしょうか?

私は、おもしろいなと思いました。

坐っている(坐禅)というのは、独楽がまわっているのとよく似ています。

独楽がまわっているといっても、軸がブレている独楽のように、荒れて回っているわけではありません。

それは、静かに回る独楽のように、なのです。

また、私達は、生き物ですから、完全にとまるということはありません。このように理解してしまうと、まるで倒れてしまった独楽のようなものです。

あくまでも、それは、まわっているのです。

その場を動かないなのに動いている。とまっていないのに、とまっている。なんとも矛盾する話ですが、独楽を観ると、そのような話も府に落ちるのではないでしょうか。

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