行いを修めると書いて、修行。
修業ではない。業ではない。
しかし、一般的に「しゅぎょう」と思われているのは、修業の方だ。
修業して、卒業して、特別な資格を得たように思われている。
何か特別な事を成し遂げて、特別なものを得たとでも思われている。
私にはそんな修業はできないし、してもいない。ましてや終わってもいない。
卒業はあっても、卒行はない。
修行なのである。
修行。それを私なりの言葉で言い換えると、運転である。自己の運転である。
自己の運転は、決して特別なことではない。すでに誰もが行い修めていること。
生まれたばかりの赤子でも、すでに自己という乗り物を運転している。
自己を運転し、道を歩んでいる。仏道修行も同じである。
ただし、何も考えずテキトーに運転すればいいかと言えば、そういうわけでもないようだ。
では、言われた通り真面目に運転すればいいかと言えば、そういうわけでもないようだ。
本気(マジ)にならなければいつまでたっても運転できない。
程よく適当に力を抜かないと運転に疲れる。
修行にはそういった気づきがある。それは何も特別な事ではない、当たり前の事。
当たり前の事なのに、特別な事でもないのに、大事であるのだ。
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