まず始めに、言葉について
メール対応の中で、参禅者の方から結界に関する質問を頂きました。
「結界」
元々、この言葉に、一般的に思われているようなバリア的な意味はありません。
そもそもの意味は、僧侶が秩序を保つために用いた工夫です。
このメールを頂いて、元々の意味から変化していった仏教の言葉がたくさんあるなぁと今更ながら気づかされました。
仏教の言葉に限らず、言葉そのものは、まるで生き物みたいに変化していくものです。
自分が受け取った言葉の認識と、言葉を発した側の認識が必ずしも一致しているわけではありません。中には全く反対の意味をもつような言葉もあります。
些細な認識の違いから誤解が生まれてしまうことだってあるでしょう。
私達が「知っている!」あるいは当然のように「そうだ!」と思っている言葉も、ひょっとしたらその言葉の一面にすぎないということも多々あるのではないでしょうか。
仏教の言葉も約2500年の歴史の中で、その意味が変化し続けてきました。
勉強すればするほど、元々の意味から様々な要因によって、変化していった、そうして言葉が育まれてきたことを感じずにはいれません。
ということで、折角なら、ブログに載せて、他の方達にも、その言葉の元々の意味を知ってもらいたいなと思いました。
正確に言えば、元々といっても現時点での学問による研究でわかった範囲までのことですが、きっと言葉を考える上でも、参考になるはずです。
もっと厳密に言えば、私がその言葉を、その時点で、どのように理解しているかを書いているということなのでしょうか。
まぁ、何にせよ、仏教の言葉に対して、皆さんが抱く現時点の「点」としての理解に、他にも「点」があることを知ってもらいたいわけです。
点と点を繋ぐことで線ができ、より具体的に、言葉のイメージを掴むことができる。その一助になれば嬉しいです。
是非、みなさんも質問があれば、聞いて下さい。私が答えられる範囲で、一生懸命応えさせていただきます。
結界
ということで、早速「結界」という言葉について書かせて頂きます。
先ほども述べたように、結界と聞くと、バリア的な意味を連想される方が多いかもしれません。しかし、一般的に想像しているような意味は元々ありません。
結界はそもそも僧侶が秩序を保つために用いた工夫なのです。僧侶同士で問題がおこらないように、一定の地域に制限を設けました。その制限、つまりルールを設けた場所が結界と呼ばれました。
この結界は、特に受戒や布薩の時に用いていたようです。
布薩というのは、簡単に言えば、反省会みたいなものです。自分の過ちを告白する場です。それで自分の行いを省みるわけです。
ここで私が想像するのは、おそらく自分の過ちを告白するわけですから、その場以外の人間には極力聞かれたくないこともあったでしょう。その対策として、「ここは入れないよ」などの制限区域を設けたではないかと考えられます。
他にも僧侶は尼僧さん(女性の僧侶)もいますから、男女の問題が起こらないように、一定の地域に制限を設ける必要だってあったんじゃないですかね。更衣室やお風呂みたいな感覚といえばわかりやすいかもしれません。
そして、その場所を表す目印として、石や木など使っていたそうです。いわば標識のようなものです。
それが後々、歴史の流れの中で、女人禁制の目印として結界石みたいなのに発展したのではないでしょうか。
現代で例えるなら、道路と同じ
要するに、結界というのは道路と同じです。
道路という場所にも、いろんな制限があります。
横断してはいけない。横断歩道を渡るべし。赤の時には進まない。
他にもたくさんありますが、考えてみたら不思議ではありませんか?
誰もが皆、示し合わせたように、その場所だけ、同じルールを守っているわけですから。予め会議や相談したわけでもないのに。
私達が交通事故という問題が起らないようにと、道路でやっているのと同じように、僧侶の共通認識として、ある地域に制限を設けた場所があった、それが結界というわけです。
ちなみに道路にはたくさん道路標識があります。横断歩道の白い線もそういうもんですね。こういう標識、目印に、昔は僧侶の間では、石や木を使っていたわけです。
なので仏教元来の意味では、現代にも結界はいっぱいあるということですし、またその共通認識を生む結界が、生活の役に立っているわけです。
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