しめしていはく、しるべし、仏家には教の殊列を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし、修行の真偽をしるべし。
【中古】 正法眼蔵(1) 岩波文庫/道元(著者),水野弥穂子
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(2023/11/12 17:12時点)辨道話より
教の優劣はなく、法の浅い、深いもない。ただし、修行の真偽を知りなさい。
「できるから善い、できないから悪い」ではない。
「できるからすぐれている、できないから劣っている」ではない。
「できるから深い、できないから浅い」ではない。
できるできないはどうでもいい。
「こうするから善い、こうするから悪い」ではない。
「こうするからすぐれている、こうするから劣っている」ではない。
「こうするから浅い、こうするから深い」ではない。
するとかしないとか、取捨選択ではない。
ただ、そうであるか、そうでないか。それは自己が知っている。
しかし、それは真偽だけの話ではない。
「真だから善い、偽だから悪い」ではない。
「真だからできる、偽だからできない」ではない。
「真だからする、偽だからしない」ではない。
できるできないの問題ではない。
するしないの選択ではない。
「真の修行、偽の修行」ではない。
「真の自己、偽の自己」ではない。
そうであって、そうでない。
真偽は修行である。修行は真偽ではない。
真偽は自己である。自己は真偽ではない。
善悪は修行である。修行は善悪ではない。
善悪は自己である。自己は善悪ではない。
何もつけ足さない。何も除かない。
自己に向き合ってはじめて感じられる感覚。
その感覚に耳をすませば、自ずと見えてくる。
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