修行の真偽

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しめしていはく、しるべし、仏家には教の殊列を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし、修行の真偽をしるべし。

【中古】 正法眼蔵(1) 岩波文庫/道元(著者),水野弥穂子

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辨道話より

教の優劣はなく、法の浅い、深いもない。ただし、修行の真偽を知りなさい。


「できるから善い、できないから悪い」ではない。

「できるからすぐれている、できないから劣っている」ではない。

「できるから深い、できないから浅い」ではない。

できるできないはどうでもいい。

「こうするから善い、こうするから悪い」ではない。

「こうするからすぐれている、こうするから劣っている」ではない。

「こうするから浅い、こうするから深い」ではない。

するとかしないとか、取捨選択ではない。

ただ、そうであるか、そうでないか。それは自己が知っている。

しかし、それは真偽だけの話ではない。

「真だから善い、偽だから悪い」ではない。

「真だからできる、偽だからできない」ではない。

「真だからする、偽だからしない」ではない。

できるできないの問題ではない。

するしないの選択ではない。

「真の修行、偽の修行」ではない。

「真の自己、偽の自己」ではない。

そうであって、そうでない。

真偽は修行である。修行は真偽ではない。

真偽は自己である。自己は真偽ではない。

善悪は修行である。修行は善悪ではない。

善悪は自己である。自己は善悪ではない。

何もつけ足さない。何も除かない。

 

自己に向き合ってはじめて感じられる感覚。

その感覚に耳をすませば、自ずと見えてくる。

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