この間、ふと気になって、デジタルとアナログの違いについて調べた。
ネットで軽く調べた程度だが、そこにはこのようなことが書かれていた。
アナログとは、情報を連続的な量として扱うこと。デジタルとは、情報をとびとびの値による符号にして表すこと。
アナログ、デジタル、共に情報の扱いについての違いを表しているものだが、連続的な情報を扱うのがアナログ、段階的な情報を扱うのがデジタルという意味らしい。
例えば、体温計でいえば、水銀の上がり下がりによって温度を測るタイプのものはアナログ、電池式で直接温度が表示されるのはデジタルだ。
どちらも脇に挟んで、その数値を見ていると、メモリがどんどん上がっていくが、その上がり方、表示の仕方には違いがある。
アナログ体温計は、水銀が少しずつあがっていく。体温計にあるメモリをみて温度を読み取るが、水銀はメモリのところでちょうどとまるとは限らない。
メモリの半分だったり、3分の1、あるいは4分の1、いや5分の1か、10分の1か、あるいは100分の1か、1000分の1か、といった具合に0〜1の間には、数えきれない数字がある。
アナログ体温計はその様子も映し出している。
一方デジタル体温計は、メモリである数字がどんどん上がっていくのは一緒だが、0〜1の間の数字は表示されない。
そもそもその間の数字を扱わず、段階的に扱うからデジなのである。四捨五入であれば、0.2.であろうが、0.333333であろうがなんであろうが、0.5未満は0と表示され、0.5以上は1と表示される。
つまり、私達が目にする情報は、0か1のどちらかということである。
その間にある情報は、0.1や0.0433333など、そんな細かい情報は表示されない。
この話の何がそんなに気になるかというと、デジタルの情報は、情報が欠けているという点だ。本来あるはずの、0.1や0.45989などの情報は、受け取る側が自然と補足していることになる。
体温計の数字であればさほど問題ではないが、場合によっては、この小さな情報量の違いが誤解を生むことにもつながる。
数字だとわかりにくいが、この情報が文字や言葉ならどうだろうか?
アナログを生身の体験や経験、デジタルは体験談(言葉)や物語(文章)のようなものだと考えればわかりやすいだろうか。
例えば、私が旅をしたことを他の人に話したとする。その話は、どうしても、旅で感じた全てを言葉にすることはできない。
何を見たか、何を感じたか、心の状況がどうのように、どう変わっていくか。そんなものは刻々と変化している。
その情報を、逐一記憶はしていないし、それをそっくりそのまま伝えることは不可能だ。
私は旅の話をした時に、聞き手は私の話を聞いて、イメージを膨らませる。私の話した言葉を聞いて、点と点を結んで、一つの物語になっていく。
しかし、その頭の中イメージした物語と、実際に体験したことは、必ずしもイコールではない。
私が実際に旅をした経験は、刻一刻と変わっていく現実(連続性)をそのまま触れているアナログな情報だ。
一方、私が誰かに話した旅の話は、どんな状況があったか説明する為に、起承転結がある(段階的)デジタルな情報だ。
そんなことを漠然と考えていると、次の言葉が思い浮かんだ。
仏教には、智慧という言葉がある。
一般的に、知恵と書く「ちえ」とは大きな違いがある。
知恵はつければつけるほど、つまり、情報量が多ければ多いほど、知識があると考えられる。
アナログ情報だろうが、デジタル情報だろうが、情報の量が多ければ多いほど、知識があるのだ。
一方、仏教のそれは、実際に自分で体験して培っていったものを智慧と呼ぶ。
つまるところ、仏教のいう智慧は、デジタルの情報をいくら増やしても、それは、智慧とは呼ぶことはないということだ。
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