善き知識・善き友達

善き知識・善き友達 仏教トーク31

雑阿含経巻第27-726」をもとに構成。動画版英語版も順次公開

善き友がいるということは、修行の半ばに至ったようなものだ——アーナンダはそう思っていました。

しかしお釈迦さんの答えは、その考えとは違ったものでした。

善知識とは何か──お釈迦さんとアーナンダの対話

アーナンダの問い──善き友は修行の半ば?

アーナンダ
アーナンダ

仏法を学び、そしてともに仏道を歩む。私はこのような善き友達に恵まれています。

 

師匠。私は思うのですが、こうして善き友達がいるということは、既に修行の道の半分まで到達したようなものでしょう。

お釈迦さん
お釈迦さん

そんなことをいうものではありませんよ。アーナンダ。

弟子2
弟子2

善き友、仲間に恵まれただけで、仏道の半分を達成したというのは、さすがにいいすぎですよね?

お釈迦さん
お釈迦さん

そうではありません。善き友達がいるという事は、修行の半ばではなく、その全てなのですよ。

弟子1
弟子1

え? そっちですか? 道半ばではなく、その全てということですか?

お釈迦さん
お釈迦さん

そうです。例えば、皆が私を善き友としてくれることによって、仏の教えを学び、そしてともに仏道を歩んでいるでしょう。

弟子たちの問い返し──善知識とは「人」のことか

アーナンダ
アーナンダ

善き知識、善き仲間、そしてそれら善き事に随っていく事。私はこれらなるものは、修行の半ばだと思っていました。

お釈迦さん
お釈迦さん

そうではありません。それらは修行の半ばではなく、それらは修行の全てなのです。

弟子2
弟子2

善き知識も、善き仲間も、善きことに随っていく(指導される)事も、修行の全て。

 

言い換えれば、善き知識、善き仲間、善き事に随う(指導、指導者)とは、それ全て、修行でもあるということですね。

弟子1
弟子1

何が言いたいの?

弟子2
弟子2

仏教は単なる知識という理解ではいけない。そこには、善き仲間だったり、善き指導(者)だったり、人の存在が欠かせないという事かなって思ったの。

アーナンダ
アーナンダ

そうですね。善知識というのは、単なる「事柄」ではなく、「人」を表す言葉として捉えないといけないですね。

お釈迦さん
お釈迦さん

ですから善き友を持ち、善き仲間がいるということは、修行の全てであると知りなさい。

補足

原文や動画版、英語版、仏教用語の説明や関連する仏教知識など、補足として参照できます。

動画版

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原文

  • 雑阿含経巻第27-726

(七二六)如是我聞。一時佛住王舍城夾谷精舍。爾時尊者阿難亦在彼住。時尊者阿難獨一靜處。禪思思惟。作如是念。半梵行者所謂善知識。善伴黨。善隨從。非惡知識。惡伴黨。惡隨從。時尊者阿難從禪覺往詣佛所稽首禮足。退坐一面。白佛言。世尊。我獨一靜處。禪思思惟作是念。半梵行者所謂善知識。善伴黨。善隨從。非惡知識。惡伴黨。惡隨從。佛告阿難。莫作是言。半梵行者。謂善知識。善伴黨。善隨從。非惡知識。惡伴黨。惡隨從。所以者何。純一滿靜。梵行清白。所謂善知識。善伴黨。善隨從。非惡知識。惡伴黨。惡隨從。我爲善知識故。有衆生於我所。取念覺分。依遠離。依無欲。依滅向於捨。如是擇法覺分。精進・喜・猗・定・捨覺分。依遠離。依無欲。依滅向於捨。以是故。當知阿難。純一滿*靜。梵行清白。謂善知識。善伴黨。善隨從。非惡知識。非惡伴黨。非惡隨從。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
(大正No.99, 2巻195頁b段10行-28行)

SAT大正新脩大藏經テキストデータベースより

  • 国訳一切経阿含部2巻235頁

英語版

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仏教エピソード版

より原文に近い形で翻訳しています。

仏教エピソード㉒「善き友」
善き友を持ち、良き仲間がいるということは、修行の半ばではなく、その全てである。善い知識とは、言葉や文字で表された単なる「事柄」ではなく、本当に善い知識とはきっと「人」そのものにあるのでしょう。

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