
「その話は、仏法を理解する上で何の利益があるのですか?」
無益な争論1| 世界は無限か有限か、命や魂はあるのか
「世界は無限か有限か」「命や魂はあるのか」弟子たちの議論は熱を帯びます。

無益な争論2| 王の強さをめぐる弟子たちの議論
コーサラ国とマガダ国の王たち、誰がより強いのか――弟子たちの議論は白熱します。

無益な争論3| 知識の多さを競い合う弟子たち
最初は「四諦」の話から始まった会話でしたが、
次第に「誰の知識が多いのか」という言い争いへと変わっていきます。

無益な争論4|豪華か貧相か、多いか少ないか
ある日、弟子たちは「今日はどんな食べ物を頂いたか」という話で盛り上がっていました。豪華な食事だった人もいれば、質素な食事だった人もいます。
やがてその話は、「多い」「少ない」「ずるい」「平等ではない」といったやり取りへと変わっていきました。

無益な争論5

無益な争論のまとめ(あとがき)
今回の仏教トーク「無益な争論」では、同じような会話を五つご紹介しましたが、実際の原文でも、同じ形式の文章がいくつも並んでいました。
そして、この「無益な争論」の共通のテーマが、仏教の理解に役に立たない議論です。
弟子たちも仏教の話をしているつもりが、話の展開が変わり、論点がずれることがありました。
同じ話をしていても、論点がすり替わる。これは私たち現代人にもよくあることです。
同じ話をしていても論点がすり替わることがあるのは、話や議論だけに限りません。言葉一つとっても、同じようなことが起こります。
そうして言葉の意味自体が変わってしまうこともあるのです。
言葉の誤解
仏教語は、長い歴史の中で意味が変容してきたものも多くあります。業という仏教語もその一つです。
「業」と<業>
仏教語の中でも誤解されやすい「業」について、今回「業」と<業>という表記を分けました。
- 古代インドの慣習として一般的に使われていたものを「業」
- 仏教でお釈迦さんが新たな意味を込めたものを<業>
古代インドの慣習としての「業」
そもそも「業」という言葉は、お釈迦さんが生まれた約2500年前の古代インドでは、すでに一般的に使われてました。(パーリ語ではKarman=カルマ)
当時の「業」の考え方は、カースト制度や輪廻転生の思想とも関連しています。
徳ある人は、(前世の)徳ある行為(業)によって生じ、悪人は悪しき行為によって生じる、というウパニシャッドの著名な哲人ヤージニャヴャルキヤの言葉は、業と輪廻のかかわりを典型的に表明する。このように業は単なる行為にとどまらず、死後にも潜在的なちからとなって残存し、人の来世の善悪のあり方を規定するとの考えは広く浸透するようになった。
岩波仏教辞典より
輪廻転生なども仏教の考え方だと誤解されている方も多いですが、これらはバラモン教の思想が広く知られていた古代インドの風習、古代インドの一般常識です。
もちろん、当時これら世間一般に説かれる考え方に納得がいかなかった人物もいました。お釈迦さんも、そんな当時の常識に疑問を持ったうちの一人でした。
仏教では<業>=習慣という意味になる
お釈迦さんは、前世の行い「業」が今の生き方に影響するという常識を、今この時の自分の行い<業>によって今の生き方に影響するという考え方に変容させました。
つまり、当時の「業」という風習・慣習を、自分の行いや習慣が<業>であると言い換えたのです。
慣習と習慣は似た字ですが、意味は異なります。業も同じく、古代インドの一般概念としての「業」と、お釈迦さんが新たな意味を込めた<業>があります。
日常の言葉と仏教用語のつながり
私たちが普段使う日本語の中にも、仏教の言葉は多く紛れ込んでいます。ただし、元々の仏教での意味と、現代で私たちが理解している意味は異なることがあります。
「世界」という言葉の背景
例えば「世界」という言葉も、もともと仏教用語でした。
- 「世」:時間を表す。
- 例えば仏教では「三世(過去・現在・未来)」として用いられる。
- 「界」:空間を表す。
- 例えば仏教では「十方世界(東・西・南・北・東南・西南・東北・西北・上・下)」として用いられる
時間と空間の組み合わせが「世界」を意味します。こうした言葉の探索や吟味は、新たな発見があっておもしろいものです。
言葉と向き合うことの意義
今回の無益な争論で描かれた会話を振り返ると、人が語る言葉やその意味には幅があり、誤解も生じやすいことがわかります。
仏教語に限らず、私たちが使う言葉の背景に向き合うということは、、その言葉を発する人の背景を理解しようとすることでもあります。
要するに人を理解しようと努力することと似たようなことなのかもしれません。

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