デーヴァダッタは本当に悪弟子だったのか──経典から読む、もう一つの人物像

デーヴァダッタは本当に悪弟子だったのか?

デーヴァダッタという名前を聞いたことがあるでしょうか。
お釈迦さんの弟子の中で、おそらく最も有名な人物の一人です。

ただし、良い意味ではありません。
師匠であるお釈迦さんの殺害を企てた弟子として知られています。

しかし、経典の細かなところに目を向けていくうちに、私はデーヴァダッタが単なる悪人のようには思えなくなりました。

悪弟子として知られるデーヴァダッタ──通説と、その背景

デーヴァダッタ(漢名:提婆達多ダイバダッタ)は、お釈迦さんの弟子の中でもかなり有名な人物です。有名といっても、悪い意味でです。

というのも、デーヴァダッタは師匠であるお釈迦さんの殺害を試みた弟子として有名だからです。

また、そのデーヴァダッタにそそのかされ、王になるために父親であるマガダ国王のビンビサーラを幽閉し、結果として殺してしまったのが、アジャータシャトル王子です。

王となったアジャータシャトルの支援を受け、デーヴァダッタはお釈迦さんの立場を奪おうと画策しました。

一方で、アジャータシャトルは父を殺したことに、少しずつ後悔の念を抱きました。
ひょっとしたら、デーヴァダッタの行動に疑念を持ち始め、自らの行いを顧みたのかもしれません。

自責の念にかられ、もんもんとしていたアジャータシャトルでしたが、大臣の助言によりお釈迦さんに会います。
やがてお釈迦さんに帰依するようになり、デーヴァダッタは自分の立場を失っていきました。

そして最後には、デーヴァダッタは、お釈迦さんを殺害しようとまで考えたのです。しかし、結果は失敗に終わりました。

これが、デーヴァダッタの話として広く知られている内容です。
師匠を殺そうとした悪弟子、さらには地獄に落ちた人物として語り継がれています。

この情報だけ耳にすると、デーヴァダッタが如何にも極悪非道な弟子に見えます。しかし私は、経典の細かなところに目をやるうちに、そうは思えなくなりました。

デーヴァダッタの五つの提言──戒律を厳しくせよ

デーヴァダッタは優秀かつ真面目な人物で、自分にも厳しい人間だったと思います。

それを示すエピソードとして、お釈迦さんに規律を厳しくするよう提言した場面があります。提言の内容は、以下の五つです。

  1. 僧は人里に入らず、森林に住むこと。村や町に入ってはいけない。
  2. 僧は、食を乞うて生活すること。家に食事に招待されるなどしてはいけない。
  3. 僧は、糞掃衣(世間の人たちが捨て見向きもしないボロ切れを合わせてつくった衣)だけを着用すること。世間の人からもらった衣を着てはいけない。
  4. 僧は、木の下で座ること。建物などの屋内に入ってはいけない。
  5. 僧は、肉や魚を食さないこと。

これらデーヴァダッタの提言を、お釈迦さんは認めませんでした。

仏教トークを読んでいただいている方には納得感があると思いますが、お釈迦さんは村や町にも立ち寄りますし、家の食事に招かれることもありました。屋内で過ごすこともありますし、肉や魚も食べています。

デーヴァダッタからしてみれば、お釈迦さんの説く戒律は、周りの修行者たちと比べても緩く、非常に曖昧に思えたかもしれません。

提言が示す、デーヴァダッタの人物像

こうした提言の内容からも、デーヴァダッタが決して堕落しようとする意図はなかったことが窺えます。むしろ、高い理想を持っていたように思うのです。

またお釈迦さんの立場を自分に譲るよう提言したのも、お釈迦さんが年を取ってからのことです。

身体が少しずつ衰えていき、昔のようにきびきび動けないお釈迦さんの様子を見て、それが「緩さ」につながっていると感じていたのかもしれません。

悪人ではなく、行き過ぎた理想主義者だったのではないか

デーヴァダッタは、理想が高く、生真面目で、理屈で考えすぎる一面もあり、完璧主義的な考えに陥りやすい性格だったように思います。

自分は正しいことを言っているつもりなのに、師匠であるお釈迦さんは認めてくれない。それでも自分に厳しく努力を続けるその姿が、アジャータシャトル王子に認められ、支持を得ることにつながりました。

大国の王子という後ろ盾を得て、世間からの評価も上がっていく。今までの努力がようやく認められたデーヴァダッタにとって、衰えていくお釈迦さんの代わりに自分が指導する立場になろうと考えたのは、ひょっとしたらデーヴァダッタなりの善意だったのかもしれません。

決して完全に間違ったことを言っているわけではないのですが、その正しさには少し行き過ぎたところがある。一般的に地獄に落ちるほどの悪弟子と評されるデーヴァダッタですが、私には今、そうとは言い切れない人物像が見えています。

高い理想を持ち、努力を惜しまず、しかしその正しさの純度が高くなりすぎたがゆえに、道を誤っていった人物。そんな姿が、経典の細部から浮かび上がってくるように思うのです。

正論は、刃になる

実は、デーヴァダッタのことを、私はあまり他人事と思えません。正論を言いすぎてしまうところが、自分にもあるからです。

正論は、間違っているわけではありません。しかし正論は、同時に刃にもなりえます。人は論破されると、改善するどころか防衛的になる。そのことを、私たちはどこかで知っているはずです。

正しいことを言うのと、その言葉が相手に届くのは、別のことなのかもしれません。言葉をどう使うか。それはデーヴァダッタの話であると同時に、今の私自身への問いでもあります。

難しいのですが……。


この記事は、もともと以下の仏教トークのあとがきとして書いたものです。あわせてお読みいただけると、より深く楽しんでいただけると思います。

バナナは実がなると枯れる──デーヴァダッタと名利の話
500人の行列を引き連れ、王子に供養されるデーヴァダッタ。承認欲求が満たされた華やかな姿を、お釈迦さんはなぜ「枯れるバナナ」にたとえたのか。雑阿含経をもとにした対話。

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