
伝えようとすることが、相手を縛ってしまうとしたら。
お釈迦さんも、そんな問いに囚われたことがあると言います。
経典の中には、悪魔が登場する場面があります。
私はそれを読むと、アニメなどでよく見られる天使と悪魔が登場し、葛藤を象徴的に表すシーンを思い出します。
経典においても、同じように内面の葛藤や心の動きを表現するために、こうした象徴的な表現が用いられているのではないかと感じています。
これも、そんな悪魔とお釈迦さんの話です。
説法することへの迷い ──経典に登場する悪魔とは何か

そういえばさ、師匠が悩んでいる様子を、悪魔のささやきに例えたことがあったよね?

表現方法の一つとして、悪魔の仕業と言ったことはありますね。

同じように、師匠も他に悩んだ経験とかあるのかな?

興味深いね。
師匠、どうでしょうか?
葛藤や悩みといった形で、師匠の心に悪魔が現れたことが、他にも色々あるのでしょうか?

もちろん、色々ありますよ。
例えば説法する時にも、こう考えたことがあります。

説法について、悩まれたことがあるのですか?
ある村での出来事 ──賛同も否定も、縛りになるとしたら

はい。ある村に行った時の話です。
私は大勢の人に囲まれて「是非、説法してください!」と懇願されたことがありました。

さすが、師匠、人気者ですね。

それで説法されたのですか?

説法はしましたよ。
そして、彼らは私に「信者になりたい!」と言いました。

いいことじゃないですか。
師匠の言う事に、皆が賛同してくれたわけでしょう?

えーっと……、村をあげて「全員信者になりたい」と言ってこられたのです。

村、まるごとですか!?

ただ、村をまるごととなると、私が説法したことについて、賛同する者もいれば、否定するものもいました。

師匠の説法を直接聞いていない人もいたのですか?

そういう事ですね。

師匠の話を知らない人も「村人、皆まとめて信者になる!」という話になったのですか!?

そういう事なのでしょうね。

それは……、賛同してくれた人達も、少し妄信的ですね。
何も知らずに、そんな話になったら否定的にもなりますよね。

村の決定で、そんな否定的な人達も無理に信者にしようとしたのですか……。

ただその時、村も病気でたくさんの人が亡くなったと聞いています。

苦難の時だったからこそ、誰かに縋りつきたかったのでしょうか?

でも、そんなことしたら、何も知らない人たちは、嫌がるでしょう?
否定的になっても当然だと思います。

さらにそこから無理やり信者にしようとしたら、余計否定的になってしまうよね。

この時も、私は悩みましたね。
葛藤は、伝えるために必要なのかもしれない

なるほど。ここで例の悪魔が登場したんですね。

「私は一体、何の為に、一生懸命に説法をしているのだろうか」と悩んでしまいました。
「結局そうやって、私の説法が、教えが、人を束縛してしまうのではないだろうか」と。信じる人も疑う人も、皆……。

束縛ですか?

賛同する人は、妄信的に賛同する。
否定する人は、聞いてもいないのに、端から否定する。
そういうわけですから。

師匠は、解く事を説いているのに、逆に聞いた人達は、縛られるように扱ってしまうわけですからね……。

はい。皆、解くという方向性で努力する事より、縛るという方向性で努力してしまうのですから。私は一体何のために法を説いているのだろうかと悩んでしまいました。

仏法を仏法の土俵で考えるのではなく、仏法を自分の土俵で考えてしまうからではないですか?
仏法の土俵で考えるべきですよ。

いくら感動する言葉を聞いたとしても、その言葉について考えるのは自分だから、どうしても最初は自分土俵で考えてしまうよね。

そうですね。だけど、私はこの仏法が必ず皆の役に立つと思っています。

自分土俵では考えない教えだからこそ、仏法は束縛ではなく、解く事を伝えられるのだと私も思います。

束縛され続けるのは辛いことだと思います。その辛さや苦しさを解けるのならば、それはきっと役に立つものですよ。

そうですね。束縛され、苦しんでいる人たちを助けられる人でありたい。
その想いがいつも悪魔を退けてくれます。
説法して意味があるんだろうかという不安という悪魔を。

妄信的な賛同も、懐疑的な否定も、それは師匠の伝えたい所ではないのですから、気にする必要なんてないですよ。

言葉にしても伝わらない。
でも言葉にしなきゃ伝わらない。
葛藤してしまいますね。

いやいや。
伝えるにはそういった葛藤も必要なことなのでしょう。
補足
原文や動画、仏教用語の説明や関連する仏教知識など、補足として参照できます。
原文
- 雑阿含経巻第39-1097
(一〇九七)如是我聞。一時佛住釋氏石主釋氏聚落。時石主釋氏聚落多人疫死。處處人民若男若女。從四方來受持三歸。其諸病人。若男若女若大若小。皆因來者自稱名字。我某甲等。歸佛歸法歸比丘僧。擧村擧邑皆悉如是。爾時世尊勤爲聲聞説法。時諸信心歸三寶者。斯則皆生人天道中。時魔波旬作是念。今沙門瞿曇。住於釋氏石主釋氏聚落。勤爲四衆説法。我今當往爲作留難。化作年少往住佛前。而説偈言 何爲勤説法 教化諸人民 相違不相違 不免於驅馳 以有繋縛故 而爲彼説法爾時世尊作是念。惡魔波旬欲作嬈亂。即説偈言 汝夜叉當知 衆生群集生 諸有智慧者 孰能不哀愍 以有哀愍故 不能不教化 哀愍諸衆生 法自應如是惡魔波旬作是念。沙門瞿曇已知我心。内懷憂慼即沒不現
(大正No.99, 2巻288頁b段19行-c段10行)
- 国訳一切経阿含部3巻111頁
関連記事
下記の仏教エピソードは、この記事のより原文に近い翻訳となります。



コメント