
お釈迦さんが菩提樹の下で悟りを開いた時、いったい何を考えていたのでしょうか。その一つが、苦行を捨てたことへの問い直しでした。
弟子たちが問いかけると、意外な答えが返ってきました。
苦行とは何か──お釈迦さんが捨てたもの

師匠は、菩提樹の下で坐っていた時に、大事なことに気づいたんですよね?

まぁ、そうですね。

その時何を考えていたんですか?

たくさん、色々考えましたね。

色々とは具体的に何ですか?
たくさんあるのであれば、何か一つ具体的な考えをお聞かせください。

例えば、「苦行について」も考えていましたよ。

苦行ですか?

はい。私は苦行は役に立たないものとして、捨てました。
苦行をやめてよかったなとも考えていましたね。

苦行とは、あえて自分に苦しみや厳しい制約を課す修業のことでしたね?

自分に苦しみを課す修業?

苦行はわざわざ苦しむ、つまり苦しみを追加していく修業といっていいかな。
だけど、 仏教は、すでにある苦しみをどう見るか、そしてどう解決していくかを考えるんだよ。

仏道を理解するのに、苦行は何の役にも立たない。
そういうことですか?

そうです。
常識を疑う勇気──お釈迦さんが自問自答したこと

言葉にすればたったそれだけの事なのですが、実は当時、悩んだものです。
「本当に、本当に苦行を捨てて良かったんだろうか?」と。

え? 悩んだのですか?
菩提樹の下で悟りを開いた直後なのに?
それなのに悩んだのですか?

はい。

そんな・・・・・・。その悩みは悪魔のささやきだったのでは?

面白いたとえですね(笑)
受け止め方は皆さんにお任せしますよ。
いずれにせよ、私は「本当に苦行をやめてよかったのかな?」と自問自答を繰り返していました。

へえ。

苦行することによって、悟りに至ると考える人は割と多いですもんね。
なんとなく、イメージで、苦しみを克服することによって、一般人を超えるみたいに考えてしまいがちですが、そんな発想も師匠は捨てたのですよね?

はい。皆がなんとなく、そうのように思っている、いわば常識を捨てた。そう言い換えることもできるかもしれませんね。

周りが漠然と信じている答えに対して、自分はその答えは違うと言う。それって結構勇気がいることですよね?

なるほど、だから師匠は、「本当にこれを捨てていいのか?」「苦行という常識をすてていいのか?」と自問自答されたのですね。
躊躇する気持ちはわかります!

ええっと、私も実際に苦行を経験してみましたが、苦行は意味のないこと、何の役にも立たないと、身をもって知りました。
弓の弦を弾けば音が鳴る。
この経験から得た智慧は、それと同じくらい、当たり前のことです。

師匠は、周りの常識ではなく、自分の経験から発見した、当たり前の答えを信じたわけですね。

そうか。師匠が自分の経験から得た答えをはっきり示した時、悩みという悪魔は、もう居場所がなくなって消えていったのですね?

そんな大袈裟なものではありませんけどね(笑)
補足
原文や動画、仏教用語の説明や関連する仏教知識など、補足として参照できます。
原文
- 雑阿含経巻第39-1094
(一〇九四)如是我聞。一時佛住欝鞞羅處尼連禪河側菩提樹下初成正覺。爾時世尊獨一靜處。專心禪思作如是念。我今解脱苦行。善哉。我今善解脱苦行。先修正願。今已果得無上菩提。時魔波旬作是念。今沙門瞿曇住欝鞞羅處尼連禪河側菩提樹下。初成正覺。我今當往爲作留難。即化作年少。住於佛前而説偈言 大修苦行處 能令得清淨 而今反棄捨 於此何所求 欲於此求淨 淨亦無由得爾時世尊作是念。此魔波旬欲作嬈亂。即説偈言 知諸修苦行 皆與無義倶 終不獲其利 如弓彈有聲 戒定聞慧道 我已悉修習 得第一清淨 其淨無有上時魔波旬作是念。沙門瞿曇已知我心。内懷憂慼即沒不現
(大正No.99, 2巻287頁c段21行 – 288頁a段10行)
- 国訳一切経阿含部3巻109頁
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