
仏教の言葉を日本語で読む時、その言葉はすでに、翻訳を経たものです。
「取」もそのひとつです。
この言葉は一般に「執着」と説明されることが多いです。
「執着」とは、ピタっとくっついて離れらない状態というイメージです。それは間違いではありませんが、原語が示しているものとは、少しずれているかもしれません。
upādānaは「燃料」だった
「取」のパーリ語・サンスクリット語は、どちらも upādāna(ウパーダーナ) です。そしてこの語の字義は、「執着」でも「離れられない状態」でもありません。
「燃料」「薪」です。
英語圏の仏教文献では、upādānaは通常 attachment や clinging と訳されます。これらは「しがみつく」「離さない」という心理的な状態を表す言葉です。しかし原語はそれ以前に、もっと物理的なものを指しています。
燃え続けるための、燃料。
仏教の教えの中に「炎に薪をくべる」というたとえがあります。
欲しいものを求め続け、得ても得ても満たされない——その状態を、燃え続ける炎にたとえるのです。しかしこれは単なる比喩ではありません。upādānaという語そのものが、すでに「燃料」を意味しているのですから、このたとえは語義の延長そのものです。
つまり、執着とは「心が離れられない状態」である以前に、「現象を燃え続けさせる構造」として理解されている——そこに、この言葉の深さがあります。
「取」——執着する側と、される側
岩波仏教辞典には、「取」についてこう記されています。
様々な対象を求めて止まず、取って離さないこと。煩悩の異名として用いられる。またときに、取られ執着される対象を指す。
岩波仏教辞典
ここで注目したいのは、「取」が「執着するはたらき」と「執着される対象」の両方を指すという点です。
たとえば「五取蘊」という表現があります。色・受・想・行・識という五つの要素——身体と心のすべてにわたる構成要素——が、執着の対象となっているため、こう呼ばれます。
少しややこしいので、ここでは五蘊は「全て」という意味で解釈してよいかと思います。
要するに、すべての物は、執着しうる対象なのです。
「取」という一字が、執着する側のはたらきと執着される側の対象の両方を含んでいるということです。
薪をくべて炎が燃え続けるイメージと重ねると、少し見え方が変わります。燃えているのは自分だけではない——炎は近くにあるものへと、自然に燃え移っていくのです。
自分の大切なものが燃えてしまったら、たまりませんよね。
十二因縁における「取」——渇愛を握り続ける力
十二因縁の第九支として現れる「取」は、渇愛(tanhā)によって生じた欲望を、保持し続けるはたらきを指します。
難しい仏教用語ばかり出てきて「???」と思う方も多いかもしれませんが、十二因縁とは、苦しみを解決するために考えられた、苦しみがどのように生まれるかの因果関係を十二に分類してみたものです。
ここでは、①②③・・・・・・⑧渇愛、⑨取、⑩有・・・・・・⑫とあることだけ押さえておけば問題ありません。
今回の題材である「取」がどのように生まれるか、次に「取」がどう結びついていくか、を仏教的に考える上で、整理されたものであると思ってください。
渇愛とは、喉の渇きにも例えられます。
喉が渇いたら、渇くほど、水を求めますよね?
同じように、何かを強く求める気持ちが生じたらどうなるか、を想像してみてください。例えば、愛もその一つですね。
ただ、喉が渇くとは、自然におこることですから、ここでは、本能的な欲望と考えても良いかもしれません。
渇愛が生じる。本能的な欲望が生じる。
それだけなら、炎が生まれた瞬間です。
しかし「取」がはたらくことで、その炎に薪がくべられ続ける。
渇愛を「握り続ける構造」があることで、次の段階である「有」へと展開していきます。
つまり問題は、欲望が生じることではなく、それを手放さない力が働くことにある——十二因縁はそう観察しています。
四種の「取」——対象は違っても、構造は同じ
「取」はさらに四種に分類されることがあります。
欲取——欲望への執着
見取——誤った見解への執着
戒禁取——誤った修行・規範への執着
我語取——自己に関する誤った把握への執着
ここで大切なのは、何に執着するかという対象の違いではありません。
欲望であれ、見解であれ、修行への思い込みであれ、自己イメージであれ——「薪をくべる」という構造そのものは、すべてに共通しています。
対象がなんであれ、薪をくべ続けるという動きは同じです。
仏教の教えそのものでさえ、薪になりうる——お釈迦さん自身がそう説いたエピソード(薪ではなく筏です)があるのですから、仏教とはまた奥が深い。
まとめ——「薪をくべ続ける」ことの構造
「取(upādāna)」は、心理的な執着状態を指す言葉である以前に、「薪をくべ続ける」「燃え続けさせる燃料」として設計された概念です。
薪をくべること自体は、問題ではありません。渇愛が生じること、喉が渇くこと、何かを求めること——それは自然なことです。問題は、くべ「続ける」こと。一度も手放せない構造そのものにあります。
欲望の内容や執着そのものよりも、それを握り続けるはたらきに、苦の連鎖の構造がある。仏教的な観察の焦点は、そこにあります。
「執着」という訳語は決して間違いではありません。ただ、upādānaという語の底には、もう少し物理的な、手触りのあるイメージが眠っています。
薪に火がついている。
炎はどんどん大きくなっている。
それでも、あなたは薪をくべ続けますか?
薪をくべるのをやめたら、炎はどうなりますか?
その問いを、対話の形で探っているのが仏教トーク11「当たり前の中にある有難さに気づくには?――『取』に執らわれない心のヒント」です。



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