5月6日の坐禅会後に、「正法眼蔵現成公案」を読み、法話しました。
今回読んだ部分はこちらです。
「人(ひと)、はじめて法(ほう)をもとむるとき、はるかに法(ほう)の辺(へん)際(ざい)を離却(りきゃく)せり。法(ほう)、すでにおのれに正伝(しょうでん)するとき、すみやかに本分人(ほんぶんにん)なり。
~
生(しょう)も一時(いちじ)のくらいなり、死(し)も一時(いちじ)のくらゐなり。たとへば、冬(ふゆ)と春(はる)とのごとし。冬(ふゆ)の春(はる)となるとおもはず、春(はる)の夏(なつ)となるといはぬなり」
まずは、「たき木、はひとなる~生も一時のくらいなり、死も一時のくらゐなり」の所から思い浮かんだのは、葉っぱのフレディの話でした。
この葉っぱのフレディの絵本は、元々、青山俊董老師がお話していたのをきっかけに知ったお話です。
空や色について表現するのに、とてもおもしろい切り口だと思いました。
そこに私なりに消化して、縁起や生死、無常の話へとつなげさせて頂きました。
そこからさらに、船の話、本分人の話へと、今回の読んだ正法眼蔵の一文へとお話を繋げていきました。
ひょっとすると、よく分からない話に聞こえたかもしれません。
全部が全部伝わらなくてもいいので、その時に、百ある話の一つでも、その半分でも、いえほんの少しだけでもいいから、伝えたいと思って、話しています。
私にも伝えたい事があります。
仏教や坐禅、いろんな人との出会い。それらのおかげで、少しずつではありますが、伝えたい事を表現できるようになってきました。
こうして、人前で話すこと、毎回毎回、その経験から、皆さんから、教わっています。
どう話せばいいかな?
話の順番少し変えてみるかな?
もっと違う切り口が無いかな?
そんなこんなを繰り返すうちに、少なくとも、人前で話すときに緊張して声が震えたいた学生の頃よりは、ずっとマシになってきたはず……。
と思ってはいたのですが、今回は「全く伝わってない……」と思わせる出来事がありました。
正直、自分の力不足を痛感しています。
ただそれでも、もう私には伝えるのは無理だとあきらめずにいたい。
どうして伝わらないのか、その人がどのように考えているか、頭の中、あるいは心の中が、完璧には分からないのは仕方ないとしても、理解しようとする努力はやめたくありません。
まだまだ未熟ですが、どうか、これからもご助力ください。よろしくお願いします。
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