【日誌】3月4日の坐禅会

3月4日、坐禅会後は、正法眼蔵「現成公案」を読みました。

自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり~諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。

ここの部分を読みました。

この部分を読んだときに、あたまに思い浮かんだのが「時計」。

「何故に時計!?」と思う方も多いと思いますが、私にとっては、まさに「時計」なのですよね。

時計と言っても、もちろん、仏教の話。それは縁起に関わる話です。

その「時計」にまつわる思い出話と共に、上記の正法眼蔵の部分についてお話しました。

おそらく、今回の話の中で、「仏」という言葉をよく使っていたのでしょう。

「仏って何だろう? そういえばよくわかっていないと思って」という質問を頂きました。

説明だけなら、こちらの記事の内容を言えばよかったのですが、私にはその答えをいうのは、なんだか抵抗がありました。

何ていえばいいのでしょうか、できれば、わからないままにしておいてほしいと思ったのです。もちろん、わかる努力は続けることが大事です。

それに答えようと思えば、説明だけなら、こちらの記事の内容を言えばいいことなのですが……。

しかし、その答えは、間違ってはいないのだけれども、今の答えにはふさわしくないと感じました。

ただ、当たり前に考えていた事、当たり前にそういうものだと思い込んでいたものに対して、疑問が出てくる。疑問が出るくらいに、向き合い始めた。

そのことがとても大事なことのように感じました。

上手く言えませんが、今日も実り多きことに気づかされる坐禅会でした。

ありがとうございました。

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