7月1日の坐禅会後に、「正法眼蔵現成公案」を読み、法話しました。
今回読んだ部分はこちらです。
身心(しんじん)に法(ほう)いまだ参飽(さんぽう)せざるには、法(ほう)すでにたれりとおぼゆ。法(ほう)もし身心(しんじん)に充足(じゅうそく)すれば、ひとかたは、たらずとおぼゆるなり。たとへば、船(ふね)にのりて山(やま)なき海中(かいちゅう)にいでて四方(よも)をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相(そう)みゆることなし。しかあれど、この大海(たいかい)、まろなるにあらず、方(けた)なるにあらず、のこれる海(かい)徳(とく)つくすべからざるなり。
宮殿(ぐうでん)のごとし、瓔珞(ようらく)のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法(ばんぽう)もまたしかあり。塵中(じんちゅう)格外(かくがい)、おほく様子(ようす)を帯(たい)せりといへども、参学(さんがく)眼力(がんりき)のおよぶばかりを、見取(けんしゅ)会取(ういしゅ)するなり。万法(ばんぽう)の家風(かふう)をきかんには、方円(ほうえん)とみゆるよりほかに、のこりの海(かい)徳(とく)山(さん)徳(とく)おほくきはまりなく、よもの世界(せかい)あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下(ちょっか)も一(いっ)滴(てい)もしかあるとしるべし。
今回は、キンスカの木の話と智慧如海の話を交えてお話しました。


後関連している記事はこちらでしょうか。

日誌もどんな内容の話をしたか、話の要点だけでも、記録に残しておこうと思ってつけているのですが、きっと将来、この日誌を見直しても、何も役に立たないのではないかと思う今日この頃です。
もちろん、坐禅会の前には、だいたいどんな話をしようか、ノートに要点だけは書いています。
ただ、いざ話し終えると、確かに要点を捉えて話したはずなのですが、そのノートやこの日誌の要点だけ記録として残していても、話した内容とは違うものだという印象だけが残ります。
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