【日誌】坐禅会7月1日(眼蔵講話「現成公案6」)

7月1日の坐禅会後に、「正法眼蔵現成公案」を読み、法話しました。

今回読んだ部分はこちらです。

身心(しんじん)に法(ほう)いまだ参飽(さんぽう)せざるには、法(ほう)すでにたれりとおぼゆ。法(ほう)もし身心(しんじん)に充足(じゅうそく)すれば、ひとかたは、たらずとおぼゆるなり。たとへば、船(ふね)にのりて山(やま)なき海中(かいちゅう)にいでて四方(よも)をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相(そう)みゆることなし。しかあれど、この大海(たいかい)、まろなるにあらず、方(けた)なるにあらず、のこれる海(かい)徳(とく)つくすべからざるなり。
宮殿(ぐうでん)のごとし、瓔珞(ようらく)のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法(ばんぽう)もまたしかあり。塵中(じんちゅう)格外(かくがい)、おほく様子(ようす)を帯(たい)せりといへども、参学(さんがく)眼力(がんりき)のおよぶばかりを、見取(けんしゅ)会取(ういしゅ)するなり。万法(ばんぽう)の家風(かふう)をきかんには、方円(ほうえん)とみゆるよりほかに、のこりの海(かい)徳(とく)山(さん)徳(とく)おほくきはまりなく、よもの世界(せかい)あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下(ちょっか)も一(いっ)滴(てい)もしかあるとしるべし。

今回は、キンスカの木の話と智慧如海の話を交えてお話しました。

仏教エピソード⑯「愚か」
「愚か」とは何か?私がこのエピソードで紹介している最初の言葉に感銘を受けたのは、海外での生活に馴染めず、困っていた時でした。「自分は正しい。間違っていない」自分もそう決めつけて、苦しい思いをしたのを今でも覚えています。
ザルの知識、大海の智慧
そもそも、海はすくい取ることのできるものでもないのでしょう。ならばそのザルは邪魔なのかといえば、そうではないのかもしれません。むしろ、ザルがあるからこそ、その小さなザルで、大海のありようを感じられるのかもしれません。

後関連している記事はこちらでしょうか。

仏教エピソード㉗「賢い兄と愚かな弟」
仏教の智慧は、知恵ではありません。智慧には知恵にない意味が含まれています。知識を詰め込むだけでなく、実践を通して得ていく理解があるからこその智慧。分解すれば彗と心となる慧という字にもそのことが示されています。

日誌もどんな内容の話をしたか、話の要点だけでも、記録に残しておこうと思ってつけているのですが、きっと将来、この日誌を見直しても、何も役に立たないのではないかと思う今日この頃です。

もちろん、坐禅会の前には、だいたいどんな話をしようか、ノートに要点だけは書いています。

ただ、いざ話し終えると、確かに要点を捉えて話したはずなのですが、そのノートやこの日誌の要点だけ記録として残していても、話した内容とは違うものだという印象だけが残ります。

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